*本説教文は翻訳プログラムを利用したものです。
棘ある鞭を蹴る苦労(使徒言行録26:13-23)
言ったことを何度も何度も繰り返す人がいます。 聞きたくないかもしれませんが、繰り返される言葉の中にはその人の価値観や中心思想が含まれている可能性が高いです。
今日私たちは使徒パウロの証言を見ます。パウロの証言が聞き覚えがあるのは、彼が実際に何度も同じ内容の証言をしたからです。
使徒は劇的な回心を体現した後も、多くの霊的な体験と経験をしてきました。パウロには多くの証言の袋があります。しかし、イエスの迫害者であったパウロが自らイエスのしもべになって生きるようになった理由をよく説明してくれる事件は、ダマスカスへ行く途中にイエスに出会った事件です。
ガリラヤ東部を治める分봉王であるアグリッパ王の前で発言する機会を得たパウロは、遅れることなく再びその日を思い出します。
しかし、繰り返しには微妙な違いがあります。今回のパウロの弁論は証言に近いです。ベリクス総督の前での弁論は自分の無実を天命することに重点を置いたのに対し、今回は自分の人生を変えた生きているイエス・キリストを伝えることに重点を置いています。 つまり、証言です。証言とは、人生の劇的な変化を語ることで、聞き手に自分自身ではなく、自分を変えてくださったイエス・キリストを伝える目的があります。
さて、それではこれからパウロの証言が当時どのような状況で行われたのか見ていきましょう。
アグリッパに問いかけるペテロ
先日、ユダの総督に任命されたペテロは困った状況に陥りました。有力なユダヤ人たちがローマ市民である囚人パウロをエルサレムに引き渡すように要求しましたが、ペテロがパウロを呼んで裁判をしてみると、ユダヤ人たちが何も証明できないことを見ました。 そして、その内容がユダヤ人の宗教、そしてイエスという人が死んでから生き返ったことに関する話であることを知りました。しかし、ベスドも自分には専門知識がないので、困惑するしかありませんでした。
ちょうどベスドの就任を祝うために、ガリラヤ東部を治めるアグリッパ王とバーニゲがカイサリアを訪問します。 分봉王はローマ皇帝から任命された者で、総督よりも高い地位を持っています。
今日登場するアグリッパ王について簡単に紹介すると、イエス様が生まれた時にユダ全域を支配していたヘロデ大王の曾孫です。ヘロデ大王はローマ皇帝に任命されたユダの最初の総督でしたが、その後、ローマ皇帝によって王に任命されます。 しかし、ヘロデ大王が亡くなり、彼が治めていた領土は3人の息子が分割して治めることになります。息子たちの名前にも「ヘロデ」が入っているので、聖書読者は戸惑うかもしれませんが、息子のヘロデ・アケラオはユダヤとサマリヤを統治し、ヘロデ・アンディバはガリラヤとベレヤを、ヘロデ・ビリプ2世はガリラヤ東部地域を統治する分封王になります。もし、分封王がその役割を適切に遂行できない場合には、ローマ皇帝がこの地域に総督を派遣して一部を統治させたのですが、その代表的な例が、ボルディオ・ピラトが26年から36年まで約10年間、ユダヤの地を統治したことです。
ルカによる福音書23章を見ると、ピラトがたまたまエルサレムを訪れたヘロデ・アンディバにイエスを送りますが、ヘロデ・アンディバはユダの王ではなく、ガリラヤとベレアの地域の分封王であり、二人の仲は普段から良くなかったと聖書は言います。
紀元37年になると、3人の分封王がそれぞれ支配していた地域を「ヘロデ・アグリッパ1世」がユダヤ全地域を支配する分封王になります。この「アグリッパ1世」が使徒言行録12章1節に「ヘロデ王」として登場しますが、ヨハネの兄弟であるヤコブ使徒を殺害し、ペテロを捕まえて牢屋に入れます。
ヘロデ・アグリッパ1世は44年に死亡します。 彼の息子アグリッパ2世は17歳でローマに住んでいましたが、当時ローマ皇帝グロディオはアグリッパ2世がまだ幼いという理由でガリラヤ東部の分봉王に任命し、残りの土地、すなわちユダとガリラヤ地域は総督を派遣して統治させます。 その人物がベリクスとベスドです。アグリッパ2世はその後、皇帝の信頼を得て、ますます広い領土を支配するようになります。 彼の父アグリッパ1世がユダヤ全域を支配していたことを考慮する必要があります。
アグリッパ2世は若かったのでガリラヤ東部の分봉王になりましたが、ローマ皇帝グラウディオはアグリッパ2世にエルサレム神殿の管轄権と大祭司を任命する権限を与えました。 つまり、ユダヤ人にはかなりの影響力を持つ権力者であったことが分かります。
今、なぜベスドが大祭司たちと有力なユダヤ人たちの強引な要求についてアグリッパ2世に問い合わせたのか理解できるでしょう。
アグリッパ2世の立場でも、新しく着任した総督が着任当初から自分に助けを求めることは、自分の力を誇示することができる機会となるため、好意的に受け止めたのでしょう。 しかし、アグリッパ王がペトロの要請に興味を持った理由はそれだけではありませんでした。パウロという人物に興味を持ったからです。 彼が他ならぬイエス・キリストを宣べ伝える者であることを知っていたからです。
実際、アグリッパ自身がユダヤ人の血が流れているだけでなく、律法や預言書などに関心を持っていました。 そこで、ペトロの要請に応じ、翌日、パウロを呼んで聴聞会を開くことになります。
[威厳のある姿のアグリッパと囚人パウロの出会い]
25章23節を見ると、聴聞会場に登場するアグリッパ王とバーニゲの姿が描写されています。 彼らは大きく威厳を備えて来たそうです。様々な豪華な装いで最も高い席に座り、やがて王を追って天の長とその都市の指導者たちがついてきました。アグリッパとバーニゲは確かに王族だけが持つことができる紫色に染めた絹の王服を着て、彼の頭にはきらびやかな宝石が散りばめられた金色の冠をかぶっていました。 総督ベスもやはり統治者としての威厳を備えたオレンジ色の服を着ており、その都市の指導者たちは彼らが有力者であることが分かるような服装をしていたでしょう。
この場にパウロが出席します。 彼の手には手錠がかけられており、彼が一目で囚人であることがわかるような服装をしていました。伝えられるところによると、パウロの外見はあまり魅力的なものではありませんでした。 彼は背が低く、髪は禿げていて、鼻は曲がっていたと言われています。パウロはここで最もみすぼらしい姿をしていたことは明らかです。
26章1節、高い席に座っていたアグリッパ王はパウロを見下ろし、「あなたに話すことを許す」と言います。王と囚人の圧倒的な違いを示す場面です。
[パウロの弁論]
そこで、パウロが手を挙げて自分の弁論を始めます。今回のパウロの弁論は自分の無罪を主張することが目的ではなく、自分が出会ったイエス、自分を変えたイエス、そして自分が幸いな人であることを言います。 つまり、証言です。
この時、パウロの証言は二年前、ベリクスの前でしたのと同じ形式を備えています(皆さんも証言する時にこれを参考にしてください)。
大きく3つに分けることができますが、第一は自分の過去に関する話です。正統的なユダヤ人として非常に熱心にキリストの教会と聖徒を迫害した者として、かなり名前が知られていた過去の自分を語ります。
二つ目は、イエスに出会い、回心したことです。イエスを信じる者たちを殺すためにダマスカスに行く途中でしたが、突然、正午の光よりも明るい光でイエスが自分を訪ねてきて、「サウロよ、サウロよ、どうしてあなたが私を迫害するのか」と言われたことを言います。 ここでしか聞けないイエスの言葉がありますが、それは今日の説教のタイトルでもある、「茨を背負うことがあなたの苦しみである」です。頑固で高屈屈なパウロを一瞬にしてひっくり返し、全く新しい人生の方向に転換させたのは、他でもないイエス様のこの数言の言葉によるものでした。 説教の後半でもっと深く扱います。
最後の3つ目のパウロの証言は、イエス様と出会ってから、まさに今の自分の人生がどのように変わったかを言います。 つまり、なぜ自分がこのように生きているのか、何のために生きているのかを言います。
パターンと形式は似ていますが、相手によってパウロのスピーチの焦点は異なります。
パウロはアグリッパ王にお世辞を言ったり、請願をすることもできます。 なぜなら、アグリッパ王はエルサレム神殿の管轄権と自分を先頭に立って苦しめる大祭司たちの任命権を持っている権力者だからです。
しかし、パウロの演説の焦点は、アグリッパの権力や権威ではなく、彼の魂に当てられています。まるで虫眼鏡で太陽の光を一点に集めて熱い熱を出すように、パウロの証言はもっぱらアグリッパの信仰心、彼の魂に集中しています。これを知って、パウロの証を見るべきです。
皆さんが不信心者と会話する機会を得たなら、その人の魂に焦点を合わせなければなりません。 その人とあれこれ話をすることができます。最近の経済について、政治について、ニュースの話題などを話すことができます。 しかし、焦点はその人の深いところ、魂に焦点を合わせなければなりません。 その心に触れることができるのは私ではなく、聖霊様です。 ですから、「聖霊様、その人の魂に触れてください。動かしてください」と祈りながら、深みのある会話に進まなければなりません。
使徒パウロは自分の無実を立証しようとすることに重点を置いたわけではありません。 また、パウロはアグリッパ王の豪華で威厳のある服装と王冠に重点を置いたわけではありません。 パウロは高いところに座って自分を見下ろすアグリッパ王の魂を注視しています。
パウロはどうすればアグリッパ王の心まで届くことができるかを考えながら祈ったことでしょう。アグリッパ王は今まで出会った権力者とは異なり、ユダヤ人の血が流れていて、彼自身がキリストに対する関心を持っていたことをパウロは知っていました。22節を見ると、パウロはアグリッパが「モーセと預言者たち」を知っており、モーセと預言者たちが一様にキリストを預言し、キリストの苦難と死を預言していることを語ることによって、イエスがキリストであることを明らかにします。
それでパウロは自分の弁論の最後に至って、アグリッパ王にこう問いかけます。
(27節) "アグリッパ王よ、あなたは預言者を信じられますか。"
王の許可がなければ一言も言えない罪人が、あえて王に質問をします。 周囲の人たちはさらに困惑したことでしょう。 ベスドはパウロが非常に深刻な無礼を犯していることを知り、不快な表情を隠せません。
今、人々は果たしてアグリッパ王がどのような答えをするのか、息を呑みました。王が困惑している姿を見るほど不快な場面はありません。 ところが、王はウィットに富んでパウロの言葉を受け止めます。
"あなたが少ない言葉で私を勧めてクリスチャンになろうとするのです"(28)
人々は、囚人の言葉に動じない王の姿と言葉で状況が一段落したと思ったことでしょう。
ところが、この時、パウロは手錠で縛られた自分の手を上げてこう言います。
"言葉は少なくても多くても、アグリッパ王、あなただけでなく"
(そして周りの人たち、すなわち総督や総督夫人や有力な人たちを見渡しながら)
"今日、私の言葉を聞くすべての人も、私がこの手錠をかけられたことを除けば、私と同じようになることを神に祈ります"(29)。
このなんと威厳に満ちた姿でしょうか。 パウロが王の前で、そして王に向かって、「王よ、私と同じように幸せ者になりますように」と堂々と言った時、誰もパウロに対抗できないシーンを想像してみてください。
王の顔も、頭にかぶった王冠も無色透明になりました。
私たちはパウロの姿から、鞭で打たれ、血まみれになりながらも品位と威厳を失わないイエス・キリストの姿を見ることができます。
愛する聖徒の皆さん、皆さんもパウロのように、「このように縛られたこと以外は、私と同じようになることを望みます」と世の中の人々の前で言えるでしょうか。
棘を背負う苦難
パウロはローマ帝国が支配する世界の中で生きていて、今、ローマ帝国の権力者の前に立っていますが、彼は彼らに属する者ではないことを明確に示しています。
パウロの証言を通して私たちが知ることができるのは、彼が過去には世の中に属し、その世の中の価値観に従って一生懸命生きていた者でしたが、イエス・キリストに出会った後、真の幸せ者になって、世の中に感動を与えることを見ます。
パウロの姿から挑戦を受けたなら、彼の証言の中で彼を変えたその何かを探さなければならないでしょう。
私は、パウロの証言の中で、彼自身が「茨を背負う苦しみ」から抜け出し、今は善き羊飼いである神様の導きを受ける者になったことを言おうと思います。
とげのある杖とは、先の尖った長い棒で、農民が獣を飼う時に使用しました。 写真を参照すると、理解に役立つと思います。
イエス様がパウロに来られ、パウロに言われた言葉は、「茨の杖を後ろ足で踏むのは、あなたにとって大変なことだ」でした。
パウロがその言葉を主から聞いた時、彼がどのような考えをしたのか、そして何を考えたのかは分かりません。 しかし、明らかなことは、パウロ自身が主の言葉を拒否することができなかったということです。
農夫を追って畑を耕す獣が、後ずさりすると棘に刺されます。槍のような尖った金属が刺さっているので、刺されるととても痛いです。 賢い獣なら、後ろ足を止めて前に進みます。 しかし、気性の悪い獣は、気分が悪いと、「フーッ」と後ろ足を踏み出します。 そうすると、また棘に刺されます。後ろ足を踏み続けると死にそうになります。
農夫は神を比喩しています。神の手には茨の鎌が握られていますが、この茨の鎌は自分の労働者を導くのに使います。
では、茨の鎌とは何を指しているのでしょうか?聖書で茨の杖が何度か登場します。 その中で最も有名なのは、サムガルという士士官が牛を動かす「長い棒」でペリシテ軍六百人を殺し、イスラエルを救ったことです(サト3:31)。ここで牛を駆り立てる「長い棒」がまさに茨の杖です。 ですから、茨の杖は薄くて軽い棒ではなく、戦争の武器として使われるほど強くて鋭いものです。 そんな茨の杖に向かって後ずさりするのはどれほど愚かなことでしょうか。
また、茨の杖は箴言に登場しますが、神の言葉を指し示すこともあります。
伝道の書12:11 賢者の言葉は刺す鞭のようであり、会衆の師たちの言葉はよく打ち込まれた釘のようであり、すべて一人の羊飼いが与えたものである。
パウロのように神の御言葉に熱心な人がいたでしょうか? 彼はパリサイ派であり、その有名なカマリエル門下生として御言葉を勉強した人です。 そして、彼は御言葉通りに生きようとした人です。 ところが、神様が訪ねてきて、「とげのある杖を後ろ足で踏むのは、あなたにとって苦痛である」と言われました。
パウロ、自分は神様の御言葉通りに生きると言いましたが、神様の目には、彼はむしろ御言葉と正反対の道を歩んでいたのです。 そうです。 神様がこの世の人々を救うために送ってくださったイエス・キリストと聖徒たちと福音を迫害したのですから、それこそ茨を背負う人生でした。
聖書のあちこちに神の御言葉を刺す剣と表現しています。もし皆さんがこの一週間、神様の御言葉を拒絶して生きていて、主日に来て説教の御言葉を聞けば、心が刺さるはずです。聖霊様が神の御言葉をとげのように使って、私たちの心を、心霊を刺すのです。 つまり、御言葉と聖霊が聖徒にとげのようになります。
刺されて痛いなら、良かったと思うべきです。 なぜなら、神様が御言葉の棘で、棒でまだ私を導いてくださっている証拠だからです。
聖霊の神様は御言葉で私たちを導いてくださいます。先に行かれ、時には同行されることもありますが、時には後ろから棘で突き刺し、行くべき道を最後まで行かせます。これは、神様があなたをあきらめないからです。
C.S.ルイスのファンタジー小説、ナルニア国物語を見ると、一人の少年が急いでニュースを伝えなければならない状況になりました。遠いところまで休みなく走らなければ、間に合わせることができませんでした。
少年は、最初は自分ができると確信していました。 しかし、長い時間走っていると力が入り、疲れてきました。 ある林道を通るときでした。 疲れた少年は、森の中でとても大きな獣の影が見えました。 驚いた少年は走り始めました。 捕まったら終わりだという一心で、休むことなく走り続けました。 そうしているうちに、目的地に到着しました。 それも時間通りに到着したのです。
後になってこの少年は知ることになります。 その森の中に現れた大きな獣の影は、他ならぬ自分の王であるライオンのアスランだったのです。 そうなのです。アスランは、この少年が任務を成し遂げるために、時には恐怖を与えたのです。
愛する聖徒の皆さん、茨を背負う苦難とは、私たちの頑固さと頑固さを指します。みことばと聖霊が棘となって私たちを刺します。痛いですが、その裏側にある私たちを愛し、あきらめない神様を見なければなりません。
そして、さらに神の御言葉を持って世界に向かって進んでください。サムガルの手に握られていた茨が勝利の武器になったように、神の御言葉を剣として世界に進み、勝利する私と皆さんになることを祝福します。
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