イエス様の召しと弟子としての意味(マタイ4:18-22)
はじめに
愛する純福音群馬教会の聖徒の皆さん、新年が始まりました。 神様が送別礼拝の時に私たちに下さった御言葉は、詩篇32篇8節の「私があなたの行くべき道を示し、あなたを注意し、戒める」という言葉でした。 この御言葉を主から頂いたので、今年、私がどこに行くべきか心配したり、悩む必要はありません。 神様はご自分の民に行くべき道を示してくださいます。
神様は、罪と死の権勢の下で盲人のように彷徨いながら生きていた私たち罪人たちを憐れんでくださいました。 そして、私たちを愛してくださいました。 それで、私たちに行く道を示してくださいました。 神様が示してくださった行く道とは何でしょうか。 それは、ヨハネの福音書14章6節にあるように、「道であり、真理であり、いのち」となって私たちを父なる神様に導いてくださるイエス・キリストです。
イエス・キリストは私たちを父なる神様に導いてくださる道です。 その道は、この世の成功や富や名誉に導く道ではありません。 この世の成功や富や名誉は不完全なものです。 それは砂のようなものです。 それは有限なものです。 イエス・キリストが私たちを導いてくださる道は、それよりもっと明確で確実で永遠のものです。 私たちは永遠の命に導いてくださいます。この道以外に永遠のいのちへ行く道はありません。 わたしによらなければ、父に来る者はいない」。
彼に従って生きる道を得た者は、実際にその道を行かなければなりません。 病気になり苦しんでいる患者が病院で診察を受け、医師の処方箋を受けたなら、その処方箋通りに行かなければ治りません。 イエス・キリストを信じることもそれと同じです。 神様が私たちにイエス・キリストを命の道として送ってくださったなら、その道を知るだけではダメです。 その道を通らなければならないのです。
聖書を見ると、イエス・キリストは「私を信じなさい」という言葉よりも、「私に従え」という言葉をはるかに多く言われたという事実を知る必要があります。 イエスを信じることとイエスに従うことは同じことですが、今日、多くの人がイエスを信じていると言いながら、生活ではイエスに従わないことが多いです。
イエスの呼びかけ、すなわち「私に従え」という主の呼びかけを受け、従順に従う人は、アブラハムのように約束を受け、行く道を得ます。
弟子道の本質的な意味
イエス様の呼びかけに従って従順に従う人を「弟子」と言います。私たちは通常、イエス様を信じる人をクリスチャンと呼びますが、実際の聖書には「クリスチャン」という言葉は全部で3回しか出てきません。 一方、聖書には弟子という言葉が全部で263回出てきます。今日、私たちがよく使う「クリスチャン」という呼称は、アンティオキア教会の弟子たちの生活を見て、信じない人たちがつけたあだ名のようなものです。 しかも、福音書には「クリスチャン」という言葉は一度も出てきません。 ただ「弟子」だけがあるだけです。
あなたはイエス・キリストの弟子でなければなりません。 そうして初めて、クリスチャンという言葉を世間から聞くことができます。
マタイによる福音書の最後の場面である28章18-20節は、イエスの地上大宣教命令と呼ばれる箇所です。 イエスは弟子たちに「行って、すべての民族を弟子にして、父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けなさい」と言われます。誰にバプテスマを宣べ伝えなさいと言われたのでしょうか、「弟子となった者」に宣べ伝えなさいと言われました。
悲劇的なことに、今日の現代教会は、聖徒を弟子と区別しています。訓練プログラムなどを履修した人や、特別な任務を引き受けた人や特別な献身者を弟子と考える傾向が多いです。 そのため、バプテスマを受けた人の中で、自分をイエス・キリストの弟子だと認識する人が多くありません。 しかし、私たちが明確に知っておくべきことはこれです。 バプテスマは弟子化された者に与えるものです。 したがって、聖徒は弟子でなければなりません。
当教会の2025年度の目標は「御言葉で建てられる弟子の生活」です。 今からでも弟子になろうという意味ではなく、御言葉を正しく学び、従うことによって弟子としての生活を送るということです。
私たちの教会は、2025年の主日礼拝の説教時間に「イエス様の山上の垂訓」の御言葉を深く扱う計画です。山上の垂訓の御言葉は、イエス様がご自分に従い始めた弟子たちに与える生活規範です。山上の垂訓の御言葉は、イエスに従う者だけが理解し、生き抜くことができます。
水泳を学ぶことにした人が水の中に入らなければ、彼は水泳に関する教えが役に立たないのと同じです。
イエス様が語られた時には、群衆もいました。群衆は主の教えに驚いたり、感動したり、主の力の働きを目撃したりします。 しかし、彼らはイエス様と一緒に従わないので、しばしば主を誤解します。必要な時だけ主を探します。欲しいものが得られなければ離れる者たちです。
イエス様の召しと従順
では、イエス様の弟子はどうなるのでしょうか? 自分が望んだからといって誰でもイエス様の弟子になれるわけではありません。 イエス様の呼びかけがなければなりません。 イエス様の呼びかけは、私たちの状況に来られることによってなされます。イエス様は、私たちの状況からイエス・キリストの神の国という新しい状況に移るために来られました。 イエス様はどんな思想や理念、または心の感動などを与えて神を信じさせるのではありません。 弱い肉体を着て、私たちの人生の具体的な状況の中に来られました。 そして「私に従え」と呼びかけます。
イエス様の「わたしに従え」という呼びかけに、ペテロと彼の兄弟たちはすぐに船と網を捨てて主を追いかけました。 ここには、イエス様の説得があったとか、あるいは弟子たちがイエス様に従うしかない状況になったという内容はありません。 ここには、召す者と召される者の間に何もありません。 ただイエス・キリストの呼びかけがあるだけです。
彼らはどのような理由でイエス様の呼びかけにすべてを捨てて従うことができたのでしょうか? 彼らはイエス様の呼びかけに準備ができていたのでしょうか?それとも心理的な変化が起きたのでしょうか?
イエス・キリストは神様から全権を委任されたメシアです。 したがって、イエス・キリストはそれだけで弟子を呼ぶ権限も、自分の言葉に対する従順を要求する権限も持っておられる方です。
私たちが注目すべきは、彼らがすべてを捨ててイエスに従うしかなかったその理由です。それは、呼ぶ方、イエス・キリストの権威です。聖書の本文には、権威者の呼びかけ以外にはありません。
新しい状況への最初の一歩
ルカ9章57~62節を見ると、3人の人が登場します。最初の人は自ら弟子であることを望みました。 "イエス様が道に行かれるとき、ある人が尋ねた、「あなたがどこへ行かれるにせよ、私はついて行きます」。この人はイエス様の呼びかけを受けなかった人でした。 しかし、彼は明らかにイエス様に強い好意を感じていました。 イエス様の教えと行われた事柄に夢中になった人です。 しかし、イエス様と一緒に生きることがどのようなものかは全く分かりませんでした。 イエス様について多くのことを知ることはできましたが、イエス様と一緒に生きる現実はどのようなものか分かりませんでした。 イエス様は彼が弟子になることを懇願するものの、苦難は望まないという事実を知っていました。 この地でのイエス様の生涯は一言で言えば「苦難」です。イエス様は自ら弟子になりたいと願う人にこう言われます。「キツネにも巣穴があり、空に飛ぶ鳥にも家があるが、人子は頭を置くところがない"(58)
二人目の人はイエスの呼びかけを受けました。 しかし、彼はイエスに従う前に、亡くなった父親の葬儀をしたいと思っていました。律法に縛られている人です。律法を守ってから従うというのです。律法が、召された人と召されたイエス・キリストの間を遮っているのです。律法は確かに聖なるものであり、良いものです。 しかし、それがどんなに偉大で聖なる律法であったとしても、イエス様の呼びかけを妨げることはできません。 イエス様の呼びかけを受けた人とイエス・キリストの間を妨げる権利を持つものは何もありません。
三人目の人もイエスに召されたようですが、この人も最初の人と同じように、イエスの弟子になることを、自分が自分で選んだ人生のプログラムとして理解しました。 全権を委任された方の前で、自分が条件を出す権利があると考えました。 「主に従いましょうが、まずこれを許してください」。イエスに従うことを望みますが、従うための条件を自ら作り出したのです。 このような人にとって、弟子の生活は数多くの条件と前提が満たされなければ実現できる一つの可能性ではないのです。
このような点で、自ら弟子になりたいと願う人は、結局、自分の中にある欲望と要求、基準をイエス・キリストの前に出してしまいます。手に持ったプラウを手放せず、最後まで後ろを振り返ります。このような人は、ロトの妻のように、崩れる世界から一歩も離れることができません。
イエス様の呼びかけを受け、イエス様に従うことは、以前の生活との断絶をもたらします。 主の呼びかけは新しい「状況」を生み出します。昔の状況にとどまっていては弟子にはなれないということです。レビは税関を捨て、ペテロは網を捨てなければなりませんでした。
私たちは、弟子になる他の方法もあったと思います。 例えば、イエスの神的な能力でレビの認識を変えたり、彼が一気にイエスに従うことができるような何らかの力を与えたと考えるかもしれません。もしイエス様が肉体を着ず、霊としてのみ存在したり、肉体を着たものであるイエス様にとって、単なる殻に過ぎない、無意味なものであったなら、そうかもしれません。レビとペテロは、あえてイエス様に従って「去る」必要はなかったでしょう。 ただ、自分の昔の生活を維持しながら、イエス様の思想、イエス様の教えを黙想し、それに満足し、昔の状況に留まることができます。 しかし、イエス様は私たちと同じように肉体という弱さを身に着けて来られました。 そして「私に従え」と呼びかけます。弟子たちは実際にイエスと一緒に出発しなければなりませんでした。
キリストに従って離れ、弟子になった人々はどんな人たちでしょうか。 結論として、キリストを待っていた人たちです。 彼らは名前もなく、自分の場所で律法を守りながら、メシア、キリストを待っていた人たちです。メシヤ・キリストを待っている人々が今やっていることは、メシヤが来るまでの間だけやっている、一時的な職に過ぎないのです。 そして、ついにキリストが来られました!そして、彼が呼びます!彼らはイエスの呼びかけに即座に従順して従いました。
クリスチャンはイエス様をキリストとして信じる者であり、イエス様が来られる日を待っている人たちです。 イエス様が来られるまで、それぞれの場所で、名前もなく、キリストを待っている人たちです。いつでもイエス様が来られて「私に従え」と言われる時は、今までやっていたすべてのことが一時的にやっていたことであることを証明しなければなりません。すべてをやめて、全人格的に彼に従わなければなりません。
私たちはよく、「今は状況が良くないので、従うのが難しい」と言います。 従うことができない状況にあると言います。 実際は、自分自身で従うことができない状況にどんどん自分を追い込んでいるのです。 主が「私に従え」と言われても、「今は状況が良くない。父の葬儀をしなければならない。お嫁に行かなければならない。牛は誰が育てるのか」等々...。
私たちは自分で信じられる状況と信じられない状況を区別します。これは非常に危険な発想です。状況を決定するのは、イエス様の呼びかけしかありません。 信じることができる状況は、人間が提示するものではありません。 主が私たちを召される時が、従わなければならない状況なのです。 召される状況になったから召されるわけでもありません。 主の呼びかけが状況を作ります。 そして、呼びかけを信じて従順する者が、イエス・キリストの世界に入るのです。
信じる者だけが従順し、従順する者だけが信じます。従順から信仰が生まれ、また信仰から従順が生まれます。 教理的に見れば、従順によって救われるのではなく、信仰によって救われます。 しかし、信仰は従順の中にのみ存在します。 信仰は決して従順なしで存在することはありません。 信仰は、従順の行為の中にのみ信仰になります。
肉を着て来られたイエス様が神であるかどうかを知る方法があります。 彼に従うことです。 彼にすべてを賭けることです。 そのためには、そうするしかない状況に自分を押し込む必要があります。従順です。そこで私たちは自分の無能さを悟り、そこで初めてイエス様がキリストであり、生きている神であること、主の力を体験することができます。
ペテロは自分の無能と主の力を経験するために、船から飛び降り、荒波の上に飛び降りなければなりませんでした。 もし彼が水に飛び込まなければ、信じることを学ぶことができなかったでしょう。 信じることができるようになるためには、完全に不可能な状況、つまり道徳的に全く無責任な状況が提示されなければなりません。 つまり、荒波に飛び降りなければなりません。 これが信仰に至る道です。
イエス・キリストの道は、従順を通らなければたどり着けない道です。そうでなければ、イエス様の呼びかけは無駄なものになります。口ではイエス様に従うと言いながら、イエス様が召された道を歩まないすべての歩みは偽物です。
信じるためには、具体的な命令に従わなければなりません。ルカによる福音書9章の三人のように、条件が合えば、状況が合えば従うという態度は、自分が作った枠組みの中だけでイエス様を信じるということです。 これは、具体的に来られたキリストの前で、自己欺瞞に陥っているのです。 自分がしていることの方が重要で緊急だと言って自分の状況を並べ立てるなら、イエス様の十字架の恵みを安っぽく扱うことではないでしょうか。 従順は、イエス様が提示される具体的な命令に従うことです。
アルコール依存症の人が酒をやめたとか、金持ちが貧しい人々に多くのお金を使って善行をしたと考えてみてください。 彼らは酒とお金から離れることはできるでしょうが、まだ自分自身から離れることはできません。 教会に通って酒とタバコをやめたから、以前にやっていた悪事をしなくなったからといって、彼がイエス・キリストに完全に従って新しい存在として生まれ変わったとは言えません。 ある人は酒とタバコをやめて、以前の生活を整理したとしても、まだ自分の中に完全に留まることができます。もし彼がイエス様の呼びかけに従わず、「私はイエス様を信じて酒とタバコをやめた。 昔の遊びもしなくなった。 罵倒もしなくなった」と言うことで、自分自身を外形的な行為の中に閉じ込めてしまうことがあるということです。
従順と信仰の実際
イエス様の呼びかけは、自分自身からの脱却を意味します。以前の状況から離れ、イエス・キリストがもたらした新しい状況に移らなければなりません。 それは「最初の一歩」から始まります。
何事も最初の一歩から始まるものです。 これが具体的な従順です。 このような具体的な従順の最初の一歩は、以前の存在様式から新しい存在様式に変わる現場です。ペテロが船を離れ、波打つ海の水の上に足を踏み入れたその一歩、たとえ二、三歩進んでつまずくことになりましたが、彼はその一歩を踏み出すことで、イエスの呼びかけという状況に身を投じる(従順)ことで、信仰が具体化されました。 水の上を歩くことができることを知りました。
私たちが毎週日曜日を迎え、家を離れ、職場を離れ、生産現場を離れ、救いのことばが宣べ伝えられる教会に足を踏み出すこと、礼拝の場に出ること、この一歩は大切なことです。
ペテロは自分の力で船から飛び降りてはいけないことを知っていました。 だからペテロは「私を命じ、水の上に来なさい!」と叫びました。 キリストは「来なさい」と答えました。 船の外の水の上、それも波打つ海の真ん中で、キリストはペテロを呼びました。ペテロに与えられたのはこの言葉だけでした。万が一のための救命胴衣も、救命ボートもありません。 ペテロはその言葉に身を投じました。 そうしてペテロは最初の一歩を踏み出すことができました。
結論
私たちは、私たちが行かなければならない行いを見てはいけません。ただ、私たちに行いを要求されるイエス・キリストの御言葉を信じて最初の一歩を踏み出さなければなりません。
私は教会の奉仕者たちがこの事実を心に刻んでほしいと思います。 奉仕は外形的な行為です。どんな奉仕でも、たとえ小さなことでも、まず召しがあり、その後に従順を通した信仰の行為、行いの信仰が続かなければなりません。 そして、そうして始まる奉仕は、常に召される方に向かって行かなければなりません。 いつでも、その奉仕という行為、それ自体に留まってはいけません。毎回、そのように私たちを呼ぶキリストに向かって信仰と従順の一歩を踏み出すことが重要です。
私たちに与えられるイエス・キリストの呼びかけは新しい状況です。 この新しい状況を導くキリストに私たちが対応する方法は、従順です。
今、私たち全員がイエス様の呼びかけの前に謙遜に立ち、ペトロのように一歩を踏み出しましょう。 その一歩を通して、私たちはイエス様の力を経験するでしょう。 私たちの弱さを知っておられ、私たちの失敗も知っておられる主が私たちの手を握ってくださいます。
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