イエス様の呼びかけと新しい状況
マタイ14:28-29
ペテロが答えて言った、「主よ、もしあなたが主なら、わたしに命じて水の上に来なさい。
来なさいと言われたので、ペテロは船から降りて、水の上を歩いてイエスのもとに行った。
イエス様の呼びかけを受け、イエス様に従うということは、以前の生活との断絶をもたらします。 主の呼びかけは新しい「状況」を生み出します。昔の状況にとどまっていては弟子にはなれないということです。レビは税関を捨て、ペテロは網を捨てなければなりませんでした。
私たちは、弟子になる他の方法もあったと思います。 例えば、イエスの神的な能力でレビの認識を変えたり、彼が一気にイエスに従うことができるような何らかの力を与えたと考えるかもしれません。もしイエス様が肉を着ず、霊だけで存在したり、肉を着たものであるイエス様にとって、単なる殻に過ぎない、無意味なものであったなら、そうかもしれません。 そうであれば、レビとペテロはあえてイエス様に従って「離れる」必要はなかったでしょう。 しかし、イエス様は自ら肉という弱さを身に着けられました。私たちと同じように人間になられたのです。弟子たちは実際にイエスと一緒に出発しなければなりませんでした。
私は今、目に見える、目に見える移動だけを言おうとしているわけではありません。 遠くに行けというわけではありません。 今日、レビやペテロ、パウロよりももっと遠く、もっと福音のために旅をする人がいます。イエスと一緒に旅立つというのは、このようなことを意味するのではありません。
私たちはイエス・キリストという新しい状況に出会ったのです。
イエス・キリストに従って出発するということは、「イエス・キリストという新しい状況」に出会った者が、新しい生き方への出発を意味します。 この出発は、一歩を踏み出すことから始まります。これは、イエス様を送ってくださった神様を正しく信じる新しい方法です。イエス・キリストを通してのみ、神様を正しく信じることができます。 そのためには、送られたイエス様と共に新しい状況へ足を踏み出す必要があります。
私たちは信じられない状況から、まず信じられる状況に移らなければなりません。 従わなければ、信じることを学ぶことはできません。 すでに私たちの中にある神のものは、イエス・キリストとの交わりを通してのみ正しいものになります。私たちは「キリストが契約と律法を成就し、完成された」と言います。これは今、キリストと共にある者のものになります。
キリストと共にある者とは、キリストに従う者です。
(すでに持っていたもので待っていた人たち)
キリストに従って離れ、弟子となった人たちはどのような人たちでしょうか。 結論的に、キリストを待っていた人たちです。 彼らは名前もなく、自分の場所で律法を守りながら、メシア、キリストを待っていた人たちです。メシヤ・キリストを待っている人たちが今やっていることは、メシヤが来るまでの間だけやっている仮の職に過ぎないのです。 そして、ついにキリストが来られました!そして、キリストが呼びます!彼らはイエスの呼びかけに即座に従順して従いました。
クリスチャンはイエス様をキリストとして信じる者であり、イエス様が来られる日を待っている人たちです。 イエス様が来られるまで、それぞれの場所で、名前もなく、キリストを待っている人たちです。いつでもイエス様が来られて「私に従え」と言われる時は、今までやっていたすべてのことが一時的にやっていたことであることを証明しなければなりません。すべてをやめて、全人格的に彼に従わなければなりません。
信じることができる状況が作られなければなりません。
皆さんは本当に人間になられた神様を信じますか? もし今、皆さんの目の前に一人の青年が来て自分が神様だと言ったら、皆さんは信じるどころか、狂人と見なす可能性が高いです。私たちは、イエスを「人間になった神」として認識することが現実的に難しいのです。今日のプロテスタントは、肉体を着て来られたイエス様を直接会うことなく、イエス様について知り、信じています。この点では、トマよりも優れていると言えます。
しかし、私たちと同じように肉体という弱さに包まれたイエス様を見て従うだけの信仰が私たちにありますか? イエス様の貧しさで、イエス様が受ける誹謗中傷を受けながら、春に入る準備ができていますか? 自分にプロポーズをする男性が自分の住んでいる家を見せた時、地下の家賃半畳の部屋を見たら、この時、迷わない女性がどれほどいるでしょうか?
神様が肉体を着て私たちに来られたという意味をよく考えてみてください。教理的な次元でしかイエスを信じず、イエスの呼びかけに従わないなら、その人にとってイエスは神話の中の人物以上でも以下でもないでしょう。
肉を着て来られたイエス様が神であるかどうかを知る方法があります。 彼に従うことです。 彼にすべてを賭けることです。 そのためには、そうするしかない状況に自分を押し込む必要があります。従順です。そこで私たちは自分の無能さを悟り、そこで初めてイエス様がキリストであり、生きている神であること、主の力を体験することができます。
ペテロは自分の無能と主の力を経験するために、船から飛び降り、荒波の上に飛び降りなければなりませんでした。 もし彼が水に飛び込まなかったら、信じることを学ぶことができなかったでしょう。 信じることができるためには、完全に不可能な状況、つまり道徳的に全く無責任な状況が提示されなければなりません。 つまり、荒波に飛び降りなければなりません。 これが信仰に至る道です。
イエス・キリストの道は、従順を通さなければたどり着けない道です。そうでなければ、イエス様の呼びかけは無駄なものになります。口ではイエスに従うと言いながら、イエスが呼びかける道を歩まないすべての歩みは偽物です。
私たちはよく、「今は状況が良くないので、従うのが難しい」と言います。 ついて行けない状況にあると言います。 実際は、自分自身でついていけない状況に自分を追い込んでいるのです。 主が「私に従え」と言っているのに、「今は状況が良くない。父の葬儀をしなければならない。お嫁に行かなければならない。牛は誰が育てるのか」等々...。
私たちは自分で信じられる状況と信じられない状況を区別します。これは非常に危険な発想です。状況を決定するのは、イエス様の呼びかけしかありません。 信じることができる状況は、人間が提示するものではありません。 主が私たちを召される時が、従わなければならない状況なのです。 召される状況になったから召されるわけでもありません。 主の呼びかけが状況を作ります。 そして、呼びかけを信じて従順する者が、イエス・キリストの世界に入るのです。
信じる者だけが従順し、従順する者だけが信じます。従順から信仰が生まれ、また信仰から従順が生まれます。 教理的に見れば、従順によって救われるのではなく、信仰によって救われます。 しかし、信仰は従順の中にのみ存在します。 信仰は決して従順なしで存在することはありません。 信仰は、従順の行為の中にのみ信仰になります。
従順する者だけが信じます。私たちはこの言葉の意味をどのように理解できるでしょうか。 従順のない信仰は、自分の頭の中にしか存在しない構想に過ぎません。構想は構想であって実体ではありません。 信じることは、従順によってのみ実体になります。従順は自分が信じていることに対応するものです。使徒ヤコブが言った「行い」とは「従順」です。従順のない信仰は実体がないのです。 従順の第一歩は信仰から始まりますが、従順によって信仰が具体化されます。
具体的な命令に従わなければなりません。
そうです、信じるためには、具体的な命令に従わなければなりません。 昨日分かち合ったルカ9章の三人のように、条件が合えば、状況が合えば従うという態度は、自分が作った枠組みの中だけでイエス様を信じるということです。 これは、具体的に来られたキリストの前で、自己欺瞞に陥っているのです。 自分がしていることの方が重要で緊急だと言いながら、自分の状況を並べ立てるなら、主の十字架の恵みを安っぽく扱うことではないでしょうか。 従順は、イエス様が提示される具体的な命令に従うことです。
最初の一歩が重要です。ペトロの従順の第一歩は、網と船を捨てることで、青年に財産に背を向けさせます。従順を通して新しく創造された者だけが最初の一歩を踏み出すことができます。皆さんは、主の呼びかけに従順するために網と船を捨てたことがありますか? 手に持っていたプラウを捨てて、もう後ろを振り返らずに主に従っていますか?
一歩と踏み出し - その一歩、その最初の一歩、足を踏み出すこと
何事も最初の一歩から始まるものです。 これが具体的な従順です。 このような具体的な従順の最初の一歩は、以前の存在様式から新しい存在様式に変わる現場です。ペテロが船を離れ、波打つ海の水の上に足を踏み入れたその一歩、たとえ二、三歩進んでつまずくことになりましたが、彼はその一歩を踏み出すことで、イエスの呼びかけという状況に身を投じる(従順)ことで、信仰が具体化されました。 水の上を歩けることを知りました。
私たちが毎週日曜日を迎え、家を離れ、職場を離れ、生産現場を離れ、救いの言葉が宣言される教会に足を踏み出すこと、礼拝の場に出ること、この一歩は大切なことです。
イエス・キリストの御言葉を聞いて行かなければならない理由 - 外形的な行為から、信仰告白の状況への参入
これは具体的な命令に対する外形的な行為です。確かに外形的な行為は起こらなければなりません。 しかし、外形的な行為、外形的な従順だけでは、新しい存在としてイエス・キリストに従って生きることはできません。 アルコール依存症の人が酒をやめたとか、金持ちが貧しい人々にたくさんのお金を使って善行をしたと考えてみてください。 彼らは酒とお金から離れることはできますが、まだ自分自身から離れることはできません。教会に通って酒やタバコをやめたからといって、以前の悪事をしなくなったからといって、彼がイエス・キリストに完全に従って新しい存在として生まれ変わったとは言えません。 ある人は、酒やタバコをやめて、以前の生活を整理したとしても、まだ自分の中に完全に留まっているかもしれません。もし彼がイエス様の呼びかけに従わず、「私はイエス様を信じて酒とタバコをやめた。 昔やっていた遊びもしなくなった。 暴言を吐くこともしなくなった」と言うことで、自分自身を外形的な行為の中に閉じ込めてしまうことがあるということです。
このような文脈で、私たちペンテコステ派教会が誇る「聖霊体験」についても省察する必要があります。異言を受け、賜物を行なったからといって、彼が必ずしもイエス・キリストの弟子であるとは言えません。 敬虔の形はあるが、敬虔の力を否定する生活を送ることができます。このような者は、イエスに従う者ではなく、イエスから離れるべき者です。
第二テモテへの手紙3:1-5 (NKRV)
あなたがたは、このことを知っておくべきです。
人々が自己を愛し、お金を愛し、自慢し、慢心し、誹謗中傷し、親に逆らい、感謝せず、神聖でない。
無情で、恨みを晴らさず、讒言し、自制心がなく、凶暴で、善いことを好まず、裏切り、焦り、慢心し、驕り高ぶる。
裏切り、焦り、慢心し、快楽を愛することを神を愛することよりもっと愛する。
敬虔の形はあるが、敬虔の能力は否定するので、このような者たちから立ち去りなさい。
外形的な行為が必ず必要ですが、私たちが行かなければならないのは外形的な行為そのものではありません。 ただ、私たちに行為を要求されるイエス・キリストの言葉を信じて最初の一歩を踏み出すことです。
ペテロは自分の力で船から飛び降りるべきでないことを知っていました。 それでペテロは「私を命じ、水の上に来なさい!」と叫びました。 キリストは「来なさい」と答えました。 船の外の水の上、それも波打つ海の真ん中で、キリストはペテロを呼びました。ペテロに与えられたのはこの言葉だけでした。万が一のための救命胴衣も、救命ボートもありません。 ペテロはその言葉に身を投じました。 そうしてペテロは最初の一歩を踏み出すことができました。
私たちは、私たちが行かなければならない行為を見るべきではありません。ただ、私たちに行いを要求されるイエス・キリストの御言葉を信じて最初の一歩を踏み出さなければなりません。
私は教会の奉仕者たちがこの事実を心に刻んでほしいと思います。 奉仕は外形的な行為です。どんな奉仕でも、たとえ小さなことであっても、まず召命があり、その後に従順を通じた信仰の行為、行いの信仰が続かなければなりません。 そして、そうして始まる奉仕は、常に召される方に向かって行かなければなりません。 いつでも、その奉仕という行為、それ自体に留まってはいけません。毎回、そのように私たちを呼ぶキリストに向かって信仰と従順の一歩を踏み出すことが重要です。
私たちに与えられるイエス・キリストの呼びかけは新しい状況です。 この新しい状況を導いてくださるキリストに私たちが対応する方法は、従順です。 多くの人は、信仰が先行しなければ従順はできないのではと言います。
このような考えは、特別な少数の人々だけが-例えば、牧師や宣教師、修道士など-召しを受けることができるという結論に至りがちです。 このような考えは非常に危険な考えです。 なぜなら、行為が自分が所有している信仰から生まれると考えることができ、また、このような間違った考えによって、「私には従順するほどの信仰がない」と考える人が多くなるためです。
第一歩を踏み出さず、謙虚な信仰を標榜しながら不信仰の中に留まり続けている限り、信仰はありません。 不十分な信仰を不十分な従順のせいにすること、また同時に不十分な従順を不十分な信仰のせいにすることは、邪悪な逃避です。従順が要求される場で自分の不信仰を告白するのは、非常に卑劣な不従順です。
自分の人生や生活が邪悪な生活に縛られていたり、主の戒めを守れない自分の姿を見て嘆くことができます。 また、自分は聖霊を受けられない、祈ることができないと言いながら、虚空に留まっていることがあります。 そんな必要はありません。 外に出て、兄弟と和解してください。自分を捕らえている罪から今すぐ逃げてください。 そうすれば信じることができます。従順でない人は信じることができません。 従順な人だけが信じることを忘れないでください。
お別れの言葉
愛する聖徒の皆さん、私たちはこれまで、イエス・キリストの呼びかけとそれに対する従順が何であるかを見てきました。 ペテロが船から降りて水の上を歩いたその瞬間は、単なる奇跡的な出来事ではありませんでした。 それは、キリストの呼びかけが私たちの考えや条件を超えた、全くの主権的な出来事であることを示しています。
これに関連して、使徒パウロの話を考えてみてください。ダマスカス道でパウロに出会ったイエス様は、彼の計画や準備とは全く関係なく、彼を召されました。 当時、サウルはイエスを信じる人々を迫害するためにダマスカスに行く途中でした。 彼は大祭司の公文を持っていて、自分がすることは神のためだと固く信じていました。
しかし、イエス様はその瞬間を召命の時とされました。 「サウロよ、サウロよ、どうして私を迫害するのか?」 この召命は、サウロのすべての計画と確信を覆しました。 彼はその場で倒れ、3日間見られない状態でいなければなりませんでした。 これが私たちが言った「新しい状況」です。
ここで注目すべきは、パウロの反応です。「主よ、私に何をさせるつもりですか?" これがまさに従順の第一歩です。 彼はもはや自分の計画や確信を主張することはありませんでした。 彼の最初の言葉は従順の告白でした。 この従順を通して、サウルはパウロとなり、キリストの教会を迫害する者から教会を建てる者に完全に変わりました。
新年を始めるこの時点で、私たちは重要な選択の岐路に立っています。 今は時期ではない」、「状況が良くなったら」、「準備ができたら」という私たちの条件は、すべて昔の人の考えに過ぎません。召命の時と状況を決定されるのは、イエス・キリストのみです。 彼が「来なさい」と言われた時こそ、従うべきその時です。
神の国の民という新しいアイデンティティ、新しい存在としての人生は、イエス・キリストの呼びかけとそれに伴う従順から始まります。これは私たちの決意や努力で行われるものではありません。 イエス・キリストが私たちを呼ぶとき、その声に応答して一歩を踏み出すことです。まるで、ペテロが波打つ海の上に、パウロが完全な暗闇の中に一歩を踏み出したように。
皆さん、昔の人の存在様式から抜け出す道はただ一つしかありません。イエス・キリストが私たちに来られ、今私たちを呼んでいるというこの事実の前に一歩を踏み出すことです。 これが私たちが新しい被造物になる唯一の道です。これ以上、自分が定めた条件と状況の中に留まらないでください。今この場で、主の呼びかけに応答する第一歩を踏み出しましょう。
祈り
父なる神様、私たちがこれ以上、自分で決めた時と状況の中に留まらないようにしてください。 イエス・キリストの呼びかけの前に、従順の第一歩を踏み出すことができるようにしてください。 この一歩を通して、私たちを新しい被造物として変化させてくださり、神の国の民として新しいアイデンティティを持って生きることができるようにしてください。 イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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