大望節第4主日、クリスマス祝福主日礼拝] [大望節第4主日礼拝]
愛する聖徒の皆さん、今日は待降節の第4主日であり、クリスマス祝福主日です。イエス様の来臨を待つこの最後の主日に、私たちはある特別な場所へ旅行に出かけようと思います。 そこは、ベツレヘム近郊の「エデルの望楼」です。
皆さんは夜空を眺めたことがありますか? 特に都市を離れ、漆黒の闇の中で降り注ぐような星を眺めたことがありますか?2000年前、ベツレヘムの羊飼いたちもそうやって夜空を眺めていました。 彼らは毎晩このように空を眺めながら羊たちを守っていました。
しかし、その夜は違いました。 その夜、彼らが守っていたエデルの望楼に突然天が開かれました。 主の栄光が彼らを照らし、天使が現れ、人類史上最も偉大な知らせを伝えました。 "見よ、わたしが全民に与える大きな喜びの良い知らせをあなたがたに伝える。」
今日、私たちはこの特別な夜に何が起こったのか、そしてなぜ神様がこの羊飼いたちにこの驚くべき知らせを伝えたのか、一緒に見ていきたいと思います。 それを通して、私たちも彼らと同じように、主の来臨を待つ真の待ち望みが何であるかを悟ることができることを願っています。
特に今日の本文にある「その地域」という表現に注目してください。これは単に「ベツレヘムのどこか」を意味するものではありません。 韓国語と日本語の聖書ともに「羊の群れを守っていた」としか訳されていませんが、ここに訳されていない単語が一つあります。
ルカ2:8 (NA28)
Καὶ ποιμένες ἦσαν ἐν τῇ χώρᾳ τῇ αὐτῇ ἀγραυλοῦντες καὶφυλάσσοντες φυλακὰςτῆς νυκτὸς ἐπὶ τὴν ποίμνην αὐτῶν。
この「ピュラケ」が訳されていないのですが、この単語の意味は「羊の群れを閉じ込める場所、羊の群れを集める場所」です。つまり、羊飼いが羊を管理するために建てた「望楼」であることがわかります。この場所は、イスラエルの歴史において、そして神の救いの歴史において非常に特別な意味を持つ場所でした。
今、私たちはこのエデルの望楼に入り、その夜、羊飼いたちと一緒にこの驚くべき知らせを聞き、彼らと一緒にその喜びを分かち合い、私たちの人生にこの出来事が与える意味を深く黙想する時間を持ちましょう。
1.エデルの望楼、神様の乗り場となる場所
それではまず、エデルの望楼がどのような場所なのか見てみましょう。 聖書はここを初めて言及した時から、非常に特別な意味を与えています。創世記35章を見ると、ヤコブの最愛の妻ラヘルが末っ子ベニヤミンを産んで亡くなったのがこの付近です。 そして驚くべきことに、聖書はこの事件以降、ヤコブを「イスラエル」と呼ぶようになります。
これは偶然ではなく、神様がここを選び、ヤコブという一人の人間を「イスラエル」という神の民に変えられたのです。まるで、私たちが水を汲み上げる時に汲み上げ水が必要なように、神様はここをあなたの救いの歴史の汲み上げ水として使われたのです。
数百年後、ここはもう一人の特別な人物とつながります。ダビデです。皆さんもご存知のように、ダビデは羊飼いでした。 彼はまさにこのエデルの望楼の近くで羊を飼っていた羊飼いでした。 しかし、面白いことに、ダビデは自分の家庭ではあまり認められていなかったということです。
サムエル上16章を見ると、預言者サミュエルがイサクの家を訪ねた時、イサクはダビデを全く呼ばなかったそうです。 なぜでしょうか?おそらく羊飼いという職業のためだったのでしょう。 羊飼いは死んだ動物の死体を処理しなければならず、野獣と戦わなければならなかったので、しばしば不浄な人だと思われていました。
しかし、神様はまさにそのようなダビデを選びました。 人々の目には取るに足らないように見える彼をイスラエルの王として、メシアの先祖として立てられたのです。 これがエデルの望楼が秘めた最初の秘密です。神さまは、世の中が無視するものを通して、ご自分の驚くべき計画を成し遂げられるということです。
さらに興味深いのは、数百年後、預言者ミカがこのエデルの望楼を特別に言及したことです。ミカ記4章8節と5章2節を見ると、ミカはメシアがまさにここベツレヘムから生まれると預言します。 そしてエデルの望楼を「羊の群れの望楼」と呼びながら、ここが神の国の主権が回復される重要な場所になると言います。
このように、エデルの望楼は単なる羊群の望楼ではありませんでした。 ここは神様がご自分の救いの計画を成し遂げる特別な場所でした。 そして今、私たちはなぜ神様がここの羊飼いたちにメシアの誕生の知らせを一番最初に伝えたのか理解できるようになります。
2.エデルの望楼の特別な羊飼いたち
私たちはエデルの望楼の羊飼いを単に普通の羊飼いと考えてはいけません。彼らはエルサレムの神殿で捧げられる祭祀用の羊を育てる特別な任務を任された人たちでした。
皆さん、旧約時代の祭祀制度について考えたことがありますか?レビ記を見ると、祭りに捧げられるいけにえは「傷のないもの」でなければなりませんでした。 しかし、この「傷のない羊」を育てることがどれほど細心の注意を必要とすることか知っていますか?
羊はとてもデリケートな動物です。小さな傷も簡単に飛び散るし、野獣の攻撃も受けやすいので、祭祀用の羊を育てる羊飼いは昼夜を問わず羊の世話をしなければなりませんでした。私たちの本文にも「夜、外で自分の羊の群れを守った」と記されています。
彼らは単に羊を守るだけでなく、祭司たちと緊密に協力しなければなりませんでした。 どの羊が祭祀に適しているか、どのような欠陥があればいけないかを正確に知る必要があったからです。 ですから、彼らは律法の知識も深かったでしょう。
さらに重要なことは、彼らが毎日、祭祀の意味を深く黙想せざるを得なかったということです。自分たちが丹精込めて育てた羊が人々の罪のために毎日いけにえとして捧げられるのを見て、彼らは人間の罪がどれほど深いか、そして真の救い主がどれほど必要かを誰よりも切実に感じたことでしょう。
ですから、私は彼らがメシアに対する願いを最も深く抱いていたと思います。 毎日捧げられる数々の祭祀にもかかわらず、絶えず罪を犯す人間を見ながら、彼らは「いつになったら真の救い主が来るのだろうか」と夜空を眺めていたでしょう。
これが、神さまが彼らにメシアの誕生の知らせを一番最初に伝えた理由でしょう。 彼らは単なる羊飼いではありませんでした。 彼らは神さまの救いの計画を最も深く理解し、最も切望してメシアを待っていた人々でした。
3.栄光の光が照らされたその夜
それでは、その夜に移りましょう。 聖書は「主の栄光が彼らを照らし、彼らは大いに恐れた」と記録しています。このシーンがどれほど劇的だったか想像してみてください。
真っ暗な暗闇の中で羊を守っていた彼らに、突然天が開かれました。 主の天使が現れ、神の栄光が夜空をいっぱいに満たしました。 ここで「栄光」という言葉はヘブライ語で「カボード」です。 これは単なる光ではありません。 これは神の臨在を表す聖なる栄光です。
この栄光の光が照らされた場所はどこでしょうか? エルサレムの神殿ではありません。 ヘロデの宮殿でもありません。 エデルの望楼です。 これは非常に重要な意味を持ちます。当時のユダヤ人にとって、神殿は神様に会うことができる唯一の場所でした。 しかし、神様は神殿ではなく、羊を飼う野原にご自分の栄光を現されたのです。
これは新しい時代の始まりを告げる象徴的な出来事でした。 今、神はもはや神殿にのみおられるのではなく、私たちの日常の中に、私たちの生活の場に来られるのです。まるで羊飼いが羊を飼うその場所に来られたようにです。
そして、天使は彼らに「大いなる喜びの良い知らせ」を伝えます。ここで「良い知らせ」という言葉はギリシャ語で「ユアンゲリオン」です。 これは私たちの言葉で「福音」と訳されるまさにその言葉です。 当時、ローマ帝国では皇帝の誕生日や勝利の知らせを伝える時にこの言葉を使いました。
しかし、神の天使はこの言葉を通して全く違うニュースを伝えます。 それは、「救い主が生まれた、すなわちキリストの主である」ということです。 世の支配者ではなく、全人類の救い主が来られたというニュースです。 そして、この救い主は宮殿ではなく飼い葉桶に、軍隊の護衛の中ではなく、貧しい羊飼いの守護の中に来られたのです。
さらに驚くべきことは、羊飼いたちの反応です。 彼らは天使の言葉を聞くやいなや、「さあ、ベツレヘムに行き、主が私たちに知らせたことが成就したことを見よう」と言います。 彼らは疑いもせず、質問もしませんでした。 彼らはすぐに従いました。 なぜそうしたのでしょうか?
4.適用
愛する聖徒の皆さん、今、私たちはエデルの望楼の羊飼いたちがなぜそのように即座に反応したかを理解することができます。 彼らは準備された者たちであったからです。 彼らは毎日祭壇の羊を世話し、メシアを待ち望んでいた者たちであったため、その知らせが届いた時、すぐに認識できたのです。
では、今日、私たちはこの御言葉を通してどのようなチャレンジを受けるべきでしょうか。
第一に、私たちの日常が「エデルの望楼」にならなければなりません。 皆さん、今、皆さんがいるその場所はどこですか? 職場かもしれませんし、家庭かもしれませんし、学業の場かもしれません。 そこがあなたのエデルの望楼です。羊飼いが羊を飼いながらメシアを待ったように、私たちも日常生活の中で主を待たなければなりません。
「牧師さん、私は忙しくて、聖書を見る時間も、祈る時間もありません」多くの方がこのように言います。しかし、エデルの望楼の羊飼いを見てください。 彼らは私たちよりもっと忙しかったでしょう。 昼も夜も休む暇がなかったでしょう。 しかし、彼らはその忙しさの中でもメシアを待ちました。
第二に、私たちの仕事は礼拝であるべきです。羊飼いは神殿に行けませんでしたが、彼らの仕事そのものが礼拝でした。 なぜなら、彼らが育てた羊は神に捧げられるいけにえだったからです。 私たちの仕事も同じです。
オフィスで文書を作成する仕事であれ、工場で物を作る仕事であれ、レストランで食事を準備する仕事であれ、全てが礼拝になることができます。我が国には「犬のように稼いで正僧のように使う」という言葉がありますが、これはクリスチャンの姿勢ではありません。 私たちは正直に、誠実に、主様にお供え物を準備する気持ちで働かなければなりません。
第三に、私たちはこの良い知らせを伝える者であるべきです。羊飼いたちはイエス様に出会った後、「この事について聞いたとおりに、見たとおりに伝えた」と聖書は記録しています。 彼らは最初の伝道者になったのです。 今日の私たちもそうです。私たちが出会ったキリスト、私たちが経験したその喜びを他の人に伝えなければなりません。
5.結論
愛する聖徒の皆さん、今日、私たちはエデルの望楼への旅をしました。 そこで私たちは驚くべきことを発見しました。 それは、神様はご自分の最も大きな贈り物、最も喜ばしい知らせを、最も準備された者に先に伝えたということです。
エデルの望楼の羊飼いたちが特別だったのは、彼らの身分によるものではありませんでした。 彼らの職業や社会的地位によるものでもありませんでした。 彼らが特別だった理由は、自分たちの日常の場で真実にメシアを待ったからです。 毎日、傷のない羊を準備しながら、真の救い主を待ったからです。
そしてついにその夜、彼らの待ちは報われました。 天が開かれ、神の栄光が彼らに照らされました。 人類史上最も偉大なニュースが彼らに一番最初に伝えられました。 "今日、ダビデの町にあなたがたのために救い主が生まれた、すなわち、キリストの主である。」
全世界にもたらす喜びの知らせが、なぜエルサレム神殿ではなく、エデルの望楼の羊飼いたちに伝えられたのでしょうか。 当時、エルサレム神殿はどのような場所でしたか? 宗教指導者たちが自分たちの権力の中心地にしてしまいました。ですから、イエス様がエルサレム神殿に入られた時、イエス様がどれほど怒られたか分かりますよね?
エルサレムのユダヤ人たちは、神様が送った数多くの預言者たちを自分たちの攻撃者、敵対者として扱いました。 イエス様もそうでした。
しかし、エデルの望楼の羊飼いたちは喜びで主を迎えました。
今日、私たちもそれぞれのエデルの望楼に戻らなければなりません。 あなたの職場に、家庭に、学校に戻らなければなりません。 しかし、今は違う気持ちで戻ってください。そこが単なる職場ではなく、主を待つ聖なる望楼であることを覚えてください。
あなたがしているすべてのことが、傷のない羊を準備した羊飼いのように、主への聖なる礼拝となることを願っています。そして、私たち全員が羊飼いのように、この良い知らせを伝える証人になることを願っています。
今、2024年の最後の大望祭を過ごしながら、私たち全員がエデルの望楼の羊飼いのように、目覚めている者になりましょう。私たちの日常が主を待つ聖なる待ち時間となりましょう。 そして、その待ち時間の中で私たちに来られる主と出会う祝福された聖徒になることを主の御名によって祝福します。
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